キーノです、前回に引き続き、下田市柿崎周辺の散策です。
今回は吉田松陰のエピソードで有名な弁天島に行ってみましょう。


国道135号から須崎・爪木崎方面への入口に
「松陰の小径」という遊歩道がある。
ここから弁天島まで歩いて数分ほど。
私もこの道を散策してみることにしよう。

ゆっくりぶらぶらと歩きながら、
のどかな下田湾の雰囲気を満喫できる。

湾に面してホテル・旅館が立ち並び、
宿泊客は美しい下田湾の風景を楽しめる。

下田湾中央にある犬走島を撮影。
防波堤で本土とつながっており、釣り人達がよく訪れる。
1854年に締結された日米和親条約では、
下田湾内に浮かぶ島から7里以内は米国乗組員の通行は自由だった。
乗組員と下田の人々の交流も活発だったようだ。

黒船を発見!
…実は遊覧船であり、下田市観光の目玉の一つとなっている。

見事な松を発見。
散策をしていると様々な発見があり、
ひとつひとつが、感動を与えてくれる。

ついに弁天島にたどり着く。
ユニークな岩肌が印象的な、美しい小さな島である。
島と言っても本土と接着しており、船に乗る必要はない。

小さな祠を発見。「下田竜神宮」と書いてあるようだ。
松陰が渡航を計画した際には祠に隠れていたというが
ここがそうなのだろうか?

岩壁に穴が開いており、島の反対側へ通り抜けられる。
岩肌の感じから見て、どうも自然の作ったトンネルのようだ。
小さな島だが、様々な発見があり、本当に驚かされる。
※「通行止め」の立て札があるのでくれぐれもご注意を!

『吉田松陰・金子重輔先生踏海企ての跡
憂国の志士吉田松陰は、弟子金子重輔と共に柿崎弁天島の祠に身を隠し
夜になって、ここ弁天島の浜辺より小船漕ぎ出した。尊皇攘夷の嵐の中で
海外の事情を探るべく渡航を達せんものと必死になって荒波とたたかい
米艦ポーハタン号に向かいつつある緊迫の場面である。雄図むなしく挫折したが、
その国を思う気迫と精神は見るものに深い共感を呼び起こさないではおかない。
時に嘉永七年三月二十七日の夜(西暦一八五四年四月二四日)であった。』

吉田松陰・金子重輔の像
幕府に囚われた松陰は故郷萩に蟄居し、有名な松下村塾を開く。
幕末維新に活躍する長州藩出身の有名な志士たちは彼の門下生が多い。
松陰が塾を運営していたのは極めて短い期間である。
数年後の1859年、大老の井伊直弼が起こした
安政の大獄と呼ばれる一連の弾圧政策により死罪となる。

島から降りて近辺を散策してみたところ、
なまこ壁の見事な蔵を発見した。
下田はなまこ壁の古い家屋もあり、特に昔の商人の蔵が多い。
下田は江戸時代より大坂〜江戸を結ぶ風待港として栄え
綿屋吉兵衛などの有力な回船問屋が出現した。
モータリゼーション時代の到来により、
下田はかつての東西の流通拠点としての機能を失った。
現代ではご存知のように海水浴などの観光事業に力を入れている。
今回は吉田松陰のエピソードで有名な弁天島に行ってみましょう。


国道135号から須崎・爪木崎方面への入口に
「松陰の小径」という遊歩道がある。
ここから弁天島まで歩いて数分ほど。
私もこの道を散策してみることにしよう。

ゆっくりぶらぶらと歩きながら、
のどかな下田湾の雰囲気を満喫できる。

湾に面してホテル・旅館が立ち並び、
宿泊客は美しい下田湾の風景を楽しめる。

下田湾中央にある犬走島を撮影。
防波堤で本土とつながっており、釣り人達がよく訪れる。
1854年に締結された日米和親条約では、
下田湾内に浮かぶ島から7里以内は米国乗組員の通行は自由だった。
乗組員と下田の人々の交流も活発だったようだ。

黒船を発見!
…実は遊覧船であり、下田市観光の目玉の一つとなっている。

見事な松を発見。
散策をしていると様々な発見があり、
ひとつひとつが、感動を与えてくれる。

ついに弁天島にたどり着く。
ユニークな岩肌が印象的な、美しい小さな島である。
島と言っても本土と接着しており、船に乗る必要はない。

小さな祠を発見。「下田竜神宮」と書いてあるようだ。
松陰が渡航を計画した際には祠に隠れていたというが
ここがそうなのだろうか?

岩壁に穴が開いており、島の反対側へ通り抜けられる。
岩肌の感じから見て、どうも自然の作ったトンネルのようだ。
小さな島だが、様々な発見があり、本当に驚かされる。
※「通行止め」の立て札があるのでくれぐれもご注意を!

『吉田松陰・金子重輔先生踏海企ての跡
憂国の志士吉田松陰は、弟子金子重輔と共に柿崎弁天島の祠に身を隠し
夜になって、ここ弁天島の浜辺より小船漕ぎ出した。尊皇攘夷の嵐の中で
海外の事情を探るべく渡航を達せんものと必死になって荒波とたたかい
米艦ポーハタン号に向かいつつある緊迫の場面である。雄図むなしく挫折したが、
その国を思う気迫と精神は見るものに深い共感を呼び起こさないではおかない。
時に嘉永七年三月二十七日の夜(西暦一八五四年四月二四日)であった。』

吉田松陰・金子重輔の像
幕府に囚われた松陰は故郷萩に蟄居し、有名な松下村塾を開く。
幕末維新に活躍する長州藩出身の有名な志士たちは彼の門下生が多い。
松陰が塾を運営していたのは極めて短い期間である。
数年後の1859年、大老の井伊直弼が起こした
安政の大獄と呼ばれる一連の弾圧政策により死罪となる。

島から降りて近辺を散策してみたところ、
なまこ壁の見事な蔵を発見した。
下田はなまこ壁の古い家屋もあり、特に昔の商人の蔵が多い。
下田は江戸時代より大坂〜江戸を結ぶ風待港として栄え
綿屋吉兵衛などの有力な回船問屋が出現した。
モータリゼーション時代の到来により、
下田はかつての東西の流通拠点としての機能を失った。
現代ではご存知のように海水浴などの観光事業に力を入れている。


